レンタル彼女とデート体験 vol.02 大森碧編

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「すごい、手大きいね!」

そう言って、彼女はほっそりした小さな手を重ねてきた。

「そうかな」

平気なふりを装ってうそぶくが、僕は内心ドキドキしている。

それもそのはずで、中高と男子校、その後の大学は男子ばかりの理系という環境で過ごしてきた僕には、他愛ない話の中でのちょっとした触れ合いでも困惑してしまう。

手汗がすごいのを悟られる前に、「僕の手、荒れててひどいから」と理由をこじつけては、自分から手を引いた。

「研究者って言ってたよね。薬品荒れかな?」

「え、僕が研究者だって言ったっけ?」

会ってわずか数分。

身の上話などまだしていないような仲だ。

「少し前に、メールで話してくれたよ。違ったかな」

「いや、研究者で合ってるよ」

僕も覚えていないメールのやり取りを、彼女は当たり前のように覚えていてくれたようだ。

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彼女――大森碧さんは、『レンタル彼女』だった。

レンタル彼女というのは、その名の通り彼女をレンタルできるサービスだ。

その存在は以前から知っていて興味はあったが、まさか自分が利用するようになるとは思わなかった。

緊張をおおい隠して待ち合わせ場所で彼女の姿を探すと、既に僕を待っていたらしい碧さんは、「迷わなかった?」と手を振りながら駆け寄ってくれた。

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彼女と会ったらなんて言おうか迷っていた僕は、碧さんの方から話しかけてくれたことにホッとする。

平静を決め込んではいるものの、女性と二人で過ごすことに自信など少しもないからだ。

碧さんを選んだ理由は、彼女の自己紹介に“人目を気にして生きてきた”というような一文があったからで、そういう生き方をしてきた彼女だからこそ、自信のない僕のことを、彼女は分かってくれそうな気がした。

「潮風が気持ちいいね」

強い風が彼女の長い髪を揺らしたのに、碧さんは嫌な顔ひとつもせずにニコリとほほ笑んだ。

その様子を見て、やっぱり彼女にしてよかったと思う。

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「どうかした?」

「こういうの、いいなと思って」

「え、そうなの? 女の人と二人で会うの久しぶり?」

「仕事ならあるけどね。……プライベートは全然」

碧さんが、僕を困らせないように質問してくれるのが分かる。

つい恰好をつけて、デートくらい経験があると言いそうになったが、見栄を張らなくていいんだと自分に言い聞かせた。

すると、「お仕事でも異性と二人きりって緊張するよね」と、デートの経験のない僕のことを笑うこともなく相槌を入れてくれる。

「二人っていうのがね、ハードル高いよ」

「そっか。だからデートしたいって思ってくれたのかな」

「うん、まあ……」

それだけじゃないけれどと、言外に含みを持たせると、嫌なことを思い出して沈みそうになった僕の気持ちを掬うように、彼女は明るい声を出した。

「そうだ、海が見たいって言っていたよね。あの公園まで少し歩きながら話そう」

そうして、まっすぐ先の海を目指して二人して歩いた。

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二人で並んで歩きながら、色んなことを話した。

仕事のこと、学生時代のこと、家族のこと、趣味のこと……。

碧さんはきちんと僕を理解しようとして話を聞いてくれているのが分かるから、僕も話しやすかった。

だからこそ、話そうと思っていたわけでもないのに、思いがけず愚痴を吐いてしまっていた。

研究者として会社に入って数年、好きな研究しかしてこなかったところ、思いがけずチームリーダーに抜擢されて、人をまとめるのに苦労していること。

特に、女性の研究者とどう接していいか分からなくて、困っていること――。

碧さんは以前OLの経験をしていたこともあって、自分の体験を交えて分かりやすくアドバイスをくれた。

「でもね、人と人とのコミュニケーションに正解はないから、失敗してもいいんだと思う」

そう言ってにっこり笑う碧さんの背後には、どこまでも続く海が広がっていた。

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この広い海に比べたら、自分の悩んでいたことなど小さなことに思えてくる。

気づけば「ね?」とほほ笑みかける碧さんに、僕も「そうだね」と笑い返していた。

「あ、やっと笑ってくれた。せっかく気分も上がったみたいだから、観覧車にでも乗ってみない?」

お台場のシンボルでもある観覧車に乗りたいと言っていたのは僕のほうだ。

以前メールで言っていたことを覚えているどころか、このタイミングで提案してくれるなんて、すごく嬉しい。

「うん、行こう」

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「うわぁ、キレイな眺め!」

「ホントだ、すごい」

たとえばこれが沈んだ気持ちの時だったら、景色を眺めても心が動かなかっただろう。

けれども気分が晴れた後に見るお台場の景色は、自分がこれまで見たどの海よりも綺麗に感じた。

実際は、普通の海なのかもしれないけれど、僕にとっては特別な景色だった。

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「――じゃあ、またね」

彼女はそう言って手を振った。

(またね……か)

次の約束はない。

けれども、僕が会いたいと言えばすぐに会える距離というのは悪くなかった。

なぜなら、碧さんという存在がお守りみたいに思えるからだ。

今日のように人間関係に煮詰まった時、碧さんがまた励ましてくれると思うと、会社での振る舞いも怖くなくなる。

心のヒーローというのだろうか。

碧さんという存在がいると思うだけで、僕は今までの僕よりも自分らしくいられると思った。